市指定有形文化財 山崎家住宅(仲町2-6)

ページID1004025  更新日 2024年11月22日

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写真:山崎家住宅 外観
山崎家住宅
名称
山崎家住宅
よみ
やまざきけじゅうたく
種別
市指定有形文化財 建造物
員数
5棟
所在地
仲町2-6
指定年月日

昭和56年12月25日・平成8年4月12日・平成12年4月7日

所有者
個人
文化財の概要

当家は和菓子の山崎家「もち亀屋」から明治10年(1877)頃お茶を商う「お茶亀屋」として分家したのが始まりである。現在の屋敷地は、味噌屋から家屋ともども買い取ったものであり、当時の建物は板葺平屋建だったとのことである。その後明治26年の大火で文庫蔵と裏の大蔵以外はすべて焼失し、現在の主屋と袖蔵が建設された。建築年代については、店と住居部分が一体化した主屋が棟札によって明治38年(1905)6月5日、袖蔵が牛梁の墨書から明治33年11月23日にそれぞれ棟上げされたことが分かっており、どちらも施主は初代山崎覚太郎で、関谷兼吉(大工)、亀田亀吉(左官)、小川清之助(鳶)が工事に携わっている。

店蔵、袖蔵、煉瓦のアーチ門が並ぶ立面構成は、他の土蔵造町家とは異なる洗練された様相を呈しており、10余年の歳月と総工費2万円を費してじっくりと建設されただけに質の高い建築となっている。細部を見てみると棟は他の土蔵造町家のような箱棟ではなく、熨斗瓦積みとして一分の隙間もなく積まれており、軒瓦も唐草巴瓦ではなく一文字瓦で整然と並べられ、それらの瓦には人目につかない所であるにもかかわらず小さなレリーフ装飾が施されている。ここで用いられている銀灰色の瓦は、京都で焼かせて一枚一枚丁寧に包装して運ばせたとのことであり、無骨で頑強な江戸型土蔵造に京風の繊細な精神を加味させようとした建主と職人の意欲がうかがえる。

店蔵1階の間取りは、当初座売り形式だったので、表通り側半間を除いて畳敷で、戸締りは揚戸を用いていた。現在はガラス戸で開閉するようになっているが、当初の揚戸構はそのまま残されている。川越の土蔵造町家では、店と住居部分を土蔵壁や観音開扉の土戸などで遮断する間取りを採る場合が多いが、当家では店と住居部分は一体化し、使い勝手の良い間取りとなっている。なお、裏の大蔵への連絡は東側の外路地を利用するようになっている。2階は、千本格子の大きな開口部を得た本座敷があり、土蔵造の閉鎖的な2階とは異なる居住性の高い部屋が配されている。袖蔵は、梁行3間奥行4間の規模をもち、切妻造妻入桟瓦葺屋根の堂々とした外観を見せているが、細部に目を向けて見ると、霧除けと妻板にまで銅板を巻く細やかさに驚かされる。なお、今日では当家の外観を特徴づける重要な要素となっている煉瓦のアーチ門は、関東大震災後に建てられたものであり、それ以前は現在の半分幅の狭い路地でしかなかった。

以上のように、当家の店蔵と袖蔵は明治後期の職人技術の粋を集めた土蔵造町家の傑作であり、川越大火後に次々と建設されてきた土蔵造り町家が防火性優先から居住性重視へと新たな姿へ移行してゆく変遷を証する建築遺構として貴重である。文庫蔵は、梁間2間桁行3間の切妻造桟瓦葺土蔵で、主屋座敷の西側で隣地境界に沿って建っている。背後にあるみそ蔵や大蔵と共に明治26年の大火で焼け残った蔵のひとつで、大火後に建設された主屋とは軸線がずれている。主屋が建設される際、焼け残った土蔵を巧みに活用し、敷地全体の防火態勢を整備しようと計画していたのがわかる。内部は2階を分割して3層構造として利用され、小屋組は、両妻側の天秤梁に支えられた大型の牛梁に登り梁を架ける古い技法が用いられている。建築年代を明らかにできる資料は見つからなかったが、構造形式、部材の風蝕具合等より江戸末期の建築と推定でき、江戸時代に遡りうる土蔵として貴重である。便所は、梁間4尺奥行9尺で寄棟造桟瓦葺の真壁造建築で、文庫蔵脇の廊下の突き当りに位置している。土蔵などの防火壁に囲まれた中庭と一体化した瀟洒な建築である。建築年代は、主屋と一体化して建てられたと推定でき、明治38年(1905)の建築と考えられる。

地図

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