名称 |
神明町矢沢家文書 |
よみ |
しんめいちょうやざわけもんじょ |
種別 |
市指定有形文化財 書跡・典籍・古文書 |
員数 |
362点 |
所在地 |
郭町2-30-1(川越市立博物館) |
指定年月日 |
昭和45年1月12日 |
所有者 |
個人 |
文化財の概要 |
矢沢家は近世初頭に谷保村(現国立市)より東明寺村に来住した鋳物師(いもじ)で、代々四郎右衛門を名乗り、屋号は吹屋・鍋屋と称した。 鍋・釜・鍬等の日用品はもとより、元禄期から近隣の寺院の釣鐘も数多く鋳造していた。享保期には、領主秋元家へ鉄砲や玉を鋳造して納入しており、また秋元家家臣に米や金子を貸付けるなどの金融も行なっていた。 近世後期江戸鍋釜問屋仲間(といやなかま)は、関東鋳物師の統制を図り、毎年2両の趣意金を支払うよう強制した。この趣意金の不払いをめぐり、文政5年(1822)矢沢家をはじめ関東一体の9名の鋳物師が江戸町奉行に訴えられた。このためか矢沢家も文政13年には、全国の鋳物師を支配していた真継家(まつぎけ)の傘下に入り、「鋳物師免許状」と「座法之掟(ざほうのおきて)」を下付され、また暦応5年(1342)の「蔵人所牒(くろうどどことちょう)」など一連の文書(創作文書)の写しを与えられている。関東鋳物師達は江戸鍋釜問屋からの離脱を願って真継家に再三嘆願を行なったが、奉行所からは趣意金の支払いが命じられ、毎年の請取書がのこっている。しかし天保12年(1841)、幕府の株仲間解散令により、問屋仲間は消滅し、趣意金もなくなった。 矢沢家には、鍋・釜・釣鐘の仕様書や図面が多く現存しており、なかでも「文政三年ヨリ天保十年ニ至ル鋳物木型切図」は、川越鋳物師の技術を物語るものとして貴重である。また慶応4年(1868)「鉄砲玉勘定帳」があり、武器の鋳造も行なっていたことがわかる。 明治期には、頼母子講(たのもしこう)である「祝開社」の資料が多くあり、明治27年の川越「時の鐘」鋳造の明細帳と図面がのこっていて注目される。 |