

名称 |
木造獅子狛犬像 |
よみ |
もくぞうししこまいぬぞう |
種別 |
市指定文化財 彫刻 |
員数 |
1対 |
所在地 |
小仙波町1-21-1 |
指定年月日 |
平成23年2月21日 |
所有者 |
仙波東照宮 |
備考 |
仙波東照宮(注1)の幣殿に安置された獅子狛犬像(注2)。向かって右の口をあけた阿形(注3)が獅子。左の頭部に角があり、口を閉じた吽形(注3)が狛犬。 像高は、獅子が55.2cm、狛犬が62.2cmで、いずれも框座(注4)・台座に乗るため、総高は、獅子像が96cm、狛犬が約103.1cmある。 造りは、寄木造(注5)で、玉眼(注6)、表面は金泥彩(注7)される(元は朱漆地に漆箔。江戸後期にベンガラ地(注8)に金泥彩で補修か)。たてがみ・脚部の房毛・尾には白土地に緑色、口内は赤色の彩色が施される。 仏師は、『本朝大仏師正統系図并末流』(注9)から京都七条仏所(注10)の康音[こうおん](注11)であることがわかる。 作風は、王朝時代の和様狛犬の伝統によりながら、鎌倉時代の精悍な迫力ある獅子狛犬の姿をみごとに再現しており、江戸時代の獅子狛犬としては出色の作品といえる。 本像は、仙波東照宮寛永17年(1640)の再建時の遺品の一つとして文化財的価値が高いと評価できる。 注1 仙波東照宮[せんばとうしょうぐう] 元和元年(1616)没した家康を久能山から日光に移葬する際に喜多院に4日間逗留し供養したことから寛永10年(1633)天海僧正により建立される。寛永15年(1638)1月の川越大火で焼失。幕府の命で川越藩主堀田正盛を造営奉行とし寛永17年(1640)再建される。宮殿・幣殿・拝殿・唐門・瑞垣・石鳥居・随人門が重要文化財の建造物。東照宮に奉納された岩佐又兵衛作の三十六歌仙額が重文。岩槻藩主阿部重次が奉納した鷹絵額12聡が県指定。 注2 獅子狛犬[ししこまいぬ] 神前を守護する像。一般的には獅子はライオンを、狛犬は高麗犬を表すとする。飛鳥時代に日本に伝わった時は左右が獅子の姿であったが平安時代になりそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになった。やがて再び二頭の外見上の違いが少なくなり、現在では左右いずれの像も狛犬と呼ぶのが一般化している。 注3 阿形・吽形[あぎょう・うんぎょう] 阿吽は仏教の呪文の一つ。阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。狛犬や仁王など、一対で存在する宗教的な像のモチーフとされた。 注4 框座[かまちざ] 像などの最下段の台。 注5 寄木造[よせぎづくり] 木造彫刻造りの技法の一つ。頭部、胴部などを別々の木材に彫り、内刳[うちぐり]の後、はぎ合わせて造る手法。一般的には10世紀後半から始まり、定朝作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像で完成したとする。 注6 玉眼[ぎょくがん] 目の部分に水晶をはめ込み、実際の目に近い感じを出す技法。 注7 金泥[きんでい] 金粉を、膠[にかわ]を溶かした膠水[こうすい]にときまぜたもの。 注8 ベンガラ 酸化鉄を主成分とする赤色の顔料。 注9 本朝大仏師正統系図并末流[ほんちょうだいぶっしせいとうけいずならびにまつりゅう] 運慶後裔とされる家に伝わる仏師系図。享保7年まで記されたものと大正時代まで記されたものがある。 注10 七条仏所[しちじょうぶっしょ] 一般に慶派の名で知られる七条仏所は、本流の七条中仏所のほか、鎌倉時代後半に興った七条西仏所、室町時代の興った七条東仏所がある。その中で桃山時代から力を持っていたのが七条中仏所で、江戸時代には幕府の仕事を中心に活躍した。 注11 康音[こうおん] 定朝より23代目、運慶末流の京都七条仏所宮内卿法眼。康音が属す七条中仏所は、先代の康猶[こうゆう]以来、天海僧正の指名により上野東照宮、東叡山寛永寺、江戸城紅葉山東照宮等の造像事業に携わり、幕府御用仏師の地位を獲得している。康音の作として現在知られるものとして、日光東照宮虚空、上野東照宮随身像・五大尊像、京都長講堂後白河法皇像がある。 |