このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
川越市
  • 音声読み上げ・文字拡大
  • Foreign Language
  • サイトマップ
  • 安全・安心
  • くらし
  • 子育て・教育
  • 健康・福祉
  • 市政
  • 観光
サイトメニューここまで

本文ここから

市指定史跡 岩田彦助の墓

最終更新日:2024年3月29日

岩田彦助の墓の写真

名称 岩田彦助の墓
よみ いわたひこすけのはか
種別 市指定記念物 史跡
員数
所在地 元町2-11-1
指定年月日

昭和33年3月6日

所有者 養寿院
文化財の概要

 岩田彦助は、本姓は丹治氏、苗字を岩田と言い、諱は和衷(かずよし)、字は協恭、寅斎または広甫と号した。万治元年(1658)6月25日に阿波国徳島城下富田邑に生まれた。
 父可次は蜂須賀家に仕える150石の藩士で、彦助は14歳で跡目を継いだのだが、藩主の或る事件によって、16歳で浪人の身となった。その後外祖父母に養われ、30歳まで学問・筆道・武術等に励み、極に至らざる所なかったと言う。
 貞享4年(1687)江戸に出、32歳で当時甲斐国谷村藩主の秋元喬知に仕え、月俸2石2斗5升の身から出発。次第にその才能を買われ、16年後の宝永3年(1706)8月には正家監(家老)にまで昇るほどの異例の出世を遂げ、正徳元年(1711)には家禄700石となった。秋元家は宝永元年(1704)には川越へ移って来ていたが、国家老には有能な高山繁文がおり、彦助は江戸家老として活躍した。新参者の彦助であったが、その力量は家中の誰もが認めざるを得ず、世に「秋元に過ぎたるものが二つあり、無の字の槍と岩田彦助」と称えられたのもこのことを証している。彦助の事績で一つ有名なのは、宝永5年に歌枕で名高い「堀兼の井」の伝承地(現狭山市)に碑を建て示したことであるが、彼には儒者としての存在もあって、新井白石や室鳩巣もその力を認めていた。彦助の学問は、朱子学や陽明学に批判的で、天道などは認めず、言説は熊沢蕃山のそれに近いものであった。
 享保19年(1734)5月18日川越城にて病没。養寿院に葬られたが、墓石は儒葬形の珍しいものになっている。因みに「無の字の槍」とは元和元年(1615)に秋元家2代目藩主泰朝が、徳川家康から拝領した十文字槍のことで、現在は館林市立資料館が管理している。

お問い合わせ

教育委員会 教育総務部 文化財保護課 管理担当
〒350-8601 川越市元町1丁目3番地1
電話番号:049-224-6097(直通)
ファクス:049-224-5086

このページの作成担当にメールを送る

本文ここまで

サブナビゲーションここから

市指定文化財

よくある質問

情報が見つからないときは

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。

川越市役所

〒350-8601 埼玉県川越市元町1丁目3番地1
電話:049-224-8811(代表) ファクス:049-225-2171(代表FAX番号)
(C)2015 Kawagoe City All Rights Reserved
フッターここまでこのページのトップに戻る