市指定史跡 西川練造の墓
- 名称
- 西川練造の墓
- よみ
- にしかわれんぞうのはか
- 種別
- 市指定記念物 史跡
- 員数
- ー
- 所在地
- 小仙波町1-10 閻魔堂墓地
- 指定年月日
-
昭和33年3月6日
- 所有者
- 個人
- 文化財の概要
-
西川練造は文化14年(1817)3月17日に入間郡小仙波村(現川越市)の医家西川賛庵(三安)の長男として生まれた。幼名は政吉、後に易直(やすなお)、号は全斎、通称は景輔と言った。医術は父について学び、業としたが、他に剣術は大川平兵衛から儒学は大垣退翁から学んだと言う。
天保8年(1837)頃江戸に出、佐藤一斎や尾藤水竹について儒学を修め、また水戸の勤皇家藤田東湖にも師事して、尊王攘夷運動に奔走した。この活動の中で名を練造と改めた。そして清河八郎とも同志としての親交を結ぶに至ったが、後に帰郷して、入間郡下奥富村(現狭山市)に仮寓していた。
文久元年(1861)5月、同村の広福寺において、清河八郎・伊牟田尚平・北有馬太郎(中村貞太郎)・安積五郎・村上俊五郎らの同志と、密かに攘夷計画の会合を開いた際、周囲の偵察に出向いた錬造は、探知していた幕吏に捕えられ、江戸伝馬町の獄に送られた(なお北有馬太郎は翌日捕えられ、清河らはいちはやく逃れ、難を免れた)。不幸にも練造は獄中で病を得、同年12月14日に生を終えた。享年45。遺骨は千住小塚原回向院にあったものを、明治25年(1892)に練造の遺族たちによって、喜多院閻魔堂墓地に移し替えられたものである。墓石は練造の亡くなった翌日に清河八郎の手書によって建てたとされるが、これは文久2年12月に江戸に戻った清河が遡った日付で書したものではないかと考えられる。大正元年(1912)11月、練造は殉国の志士として、従五位を追贈されている。
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