市指定史跡 高林謙三の墓
- 名称
- 高林謙三の墓
- よみ
- たかばやしけんぞうのはか
- 種別
- 市指定記念物 史跡
- 員数
- ー
- 所在地
- 小仙波町1-10 閻魔堂墓地
- 指定年月日
-
昭和33年3月6日
- 所有者
- 個人
- 文化財の概要
-
高林謙三は天保3年(1832)6月18日高麗郡平沢村(現日高市平沢)に生まれ、16歳の時、毛呂山の権田直助の門に入り、国学と医学を学んだ。その後江戸に出て、佐倉藩の侍医佐藤尚中に西洋医術を学び、安政6年(1859)川越の小仙波にて外科医として開業した。文久2年(1862)には、川越藩主松平大和守の侍医にもなった。
やがて明治の時代を迎え、外国との貿易が開かれると、彼は日本の輸出品の乏しさに改めて驚き憂慮し、国を救わんがための殖産興業へと医術から目を転じて行った。当時の重要輸出品は製糸・製茶であったが、彼は製茶に有望性を見出し、茶の製法の改善に意を注ぎ、家業と資産を傾けて製茶器械の研究に没頭の末、焙(ほう)茶器械を発明した。それに続いて茶葉蒸器械及び製茶摩擦器械の作成にも成功した。
明治18年(1885)に特許条例が実施された際には、出願して、第2・第3・第4号の特許証を得ている。その後も改良に努め、「高林式製茶機」の名のもと製茶業の発展に大いに寄与し、しばしば表彰もされた。
今日の川越地方狭山茶の隆盛を呼び込み、成功に導いたのであったが、肝心の地元の茶業組合が当初この器械化を拒んだがため、彼は静岡茶に望みを託して静岡県に移住。明治34年(1901)そこで客死した。70歳。喜多院閻魔堂墓地に妻とともに葬られている。
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