県指定記念物 高山繁文墓

- 名称
-
高山繁文墓
- よみ
- たかやましげふみはか
- 種別
- 県指定記念物 旧跡
- 員数
- 1基
- 所在地
- 石原町1-4-9 本応寺
- 指定年月日
-
昭和25年3月20日
- 所有者
- 本応寺
- 文化財の概要
- 高山繁文は通称を伝右衛門と言い、本姓は平氏、その遠祖は秩父平氏の高山重遠であると伝える。秋元家が上野国総社で大名に取り立てられて以来仕えてきた家柄で、繁文はその4代目に当たり、寛文12年(1672)家老職となった。
秋元但馬守喬知が甲斐国谷村(現都留市)から川越へ移って来たのは、宝永元年(1704)のことであるが、この前後数年の内に関東地方は大地震、江戸に大火、富士山の噴火などが相継ぎ、国の内外は動揺混乱を呈していた。かつ秋元家は幕府重職に就いていたこともあって、藩財政は窮乏の状態あった。藩主喬知は一意殖産興業に努めたが、繁文はその命を受けて、甲州より諸職人を招き、養蚕の奨励と絹織物や川越平ひらの生産を興し、また甲州柿・養魚などの農閑余業を指導した。その功績が認められ、家禄も2倍に加増されたと言う。
また繁文は俳諧を能くし、俳号を麋塒(びじ)と言い、甲州時代に江戸詰の際、松尾芭蕉の門人となった。芭蕉が深川の芭蕉庵を焼失した時、甲斐国谷村に出向き、麋塒の住む高山家に半年近く逗留していたと言う。芭蕉の麋塒あての書簡も遺されている。彼の句は、天和2年(1682)の『武蔵曲ぶり』、翌年の「虚みなし栗ぐり」にそれぞれ5句、貞享4年(1687)の『続虚栗』に1句採られている。彼の真蹟も存すると言う。
繁文66歳の時、藩主喬知が薨ずる。すると剃髪して幻世と号し、享保3年(1718)2月川越にて70歳で没した。墓は石原町の本応寺にある。
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