県指定記念物 中島孝昌墓

- 名称
-
中島孝昌墓
- よみ
- なかじまたかまさはか
- 種別
- 県指定記念物 旧跡
- 員数
- 1基
- 所在地
- 喜多町5-1 広済寺
- 指定年月日
-
昭和24年2月22日
- 所有者
- 広済寺
- 文化財の概要
- 中島氏は、慶安年間(1648から52)の頃、初代の与兵衛が高麗郡から川越に移り住み、当初荒物のほか繭や川越平(ひら)などを売り捌さばき、ここから絹屋の屋号が生じたと言う。中島孝昌は五代目与兵衛で、明和3年(1766)に生まれ、字を済美、通称は徳三郎・与兵衛・徳右衛門と言った。
絹屋は三代目から鍛冶町(現幸町)に住み、醤油醸造商に職替えして、大商人となり、やがて町名主となって行くが、四代目の父が没したとき、孝昌はまだ13歳であった。聡明好学であったがため、その歳で名主役を継ぐべく請われ、期待に応えんがため、読書筆硯に従事、学問を伊藤恒庵や海保青陵に就いて修めたと言う。
孝昌は資性風流にして、狂歌・俳諧・漢詩・書画を能くし、茶の湯・生け花・謡曲までも嗜み、特に桜花を愛したため、桜曙・桜斎・其馨・酔春亭などの雅号をいろいろ持った。なかでも狂歌を最も得意とし、師匠は鹿都部真顔(しかつべまがお)であった。人となりは寡言端正、行為忠実と言われ、その親孝行ぶりは衆目の認めるところとなり、藩主から表彰された。母の古稀に当たって、賀の詩歌を集めた『文孝冊』を編んでいる。それに先だつ書として彼は享和元年(1801)に地誌『武蔵三芳野名勝図会』を著す。これは秋元家時代に藩士の手になる地誌『川越索麺』や『多濃武の雁』に比べてひときわ文学的薫りの高い作品で、川越地誌の白眉と称されている。
孝昌は体が丈夫でなかったらしい。文化5年(1808)正月10日、病のため43歳で没した。子無きため、甥の静民が後を継いだ。広済寺墓地の墓石には、病吟の辞世消えてこそまことなりけれ雪仏其馨の句が刻まれている。
この情報はお役に立ちましたか?
お寄せいただいた評価はサイト運営の参考といたします。
このページに関するお問い合わせ
教育委員会 教育総務部 文化財保護課 管理担当
〒350-8601 川越市元町1丁目3番地1
電話番号:049-224-6097 ファクス番号:049-224-5086
教育委員会 教育総務部 文化財保護課 管理担当 へのお問い合わせは専用フォームをご利用ください。