県指定記念物 奥貫友山墓

- 名称
-
奥貫友山墓
- よみ
- おくぬきゆうざんはか
- 種別
- 県指定記念物 旧跡
- 員数
- 1基
- 所在地
- 久下戸4511
- 指定年月日
-
大正15年3月31日
- 所有者
- 個人
- 文化財の概要
- 奥貫友山は、宝永5年(1708)入間郡久下戸村(現川越市)に生まれ、幼名を小平太、諱(いみな)を正卿、のちに五平次と称し、号を友山と言った。幼い頃から学を好み、午山不老和尚に就いて読書し、長じて江戸に出、幕府儒官成島錦江の門に遊んで儒学を修め、和歌を成島龍洲に学んだという。諸学了えて後、郷里に戻り、近隣の子弟に教授した。家は代々久下戸村の名主を務め、村政に大いに貢献し、衆望があった。
寛保2年(1742)8月、関東地方一帯に未曽有の大洪水があり、入間川・荒川・利根川などの河川が氾濫し、堤防の決壊が96ヶ所、浸水した村が川越領だけでも28ヶ村に及んだ。流潰家数は353戸、水死24人、馬の死17匹。この時、友山は父正因と共に率先して持ち舟を出したり、自宅の米蔵を開いたりして、罹災者の救助に当たった。救恤は近郷の村々にも及び、総じて48ヶ村、10万6千余人の多きに上ったと言う。すべて自己の資財を投じたものであった。
友山の行動は藩主秋元但馬守凉朝の所にまで届き、翌寛保3年10月、渋井村の高橋半右衛門と共に御目見が許され、狩野周信筆の白鷹図1幅を下賜された。その後も友山は洪水のたびに慈善事業に尽くし、築堤や治水策に心傾けた。明和元年(1764)暮れから起こった助郷騒動に続く打ちこわし一揆は、各地の豪家名主の家を襲ったが、ひとり奥貫家のみは襲撃を免れたと言う。
彼には詩稿のほか和歌集『老のすさみ』が遺されている。天明7年(1787)11月10日、80歳で没した。墓は奥貫家門前にある。友山の功績に対して、大正13年(1924)に贈従五位が与えられている。
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