県指定記念物 川越城跡


- 名称
- 川越城跡
- よみ
-
かわごえじょうあと
- 種別
-
県指定記念物 史跡
- 所在地
- 郭町2-13-1 ほか
- 指定年月日
-
大正14年3月31日
- 所有者
- 川越市 ほか
- 文化財の概要
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川越城跡は、室町時代中期に築城され、以後中世後期にあっては関東の覇権をかけて争奪が行われ、近世にあっては江戸至近の商都のシンボルとして重きを置かれた川越城の跡である。
河越城(江戸期以後を川越城と表記する)は、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝の命を受け家臣太田道真・道灌父子らが長禄元年(1457)に築城したことに始まる。享徳3年(1454)、関東管領上杉憲忠を殺害した鎌倉公方足利成氏は、戦乱の中下総古河(こが)を居所としたが、相模に拠点を置く持朝は南関東の支配を確立するため、武蔵の中央である河越の地に築城したと考えられる。以後、約80年間扇谷上杉氏6代の居城となったが、その姿は概ね方形に堀を巡らすいくつかの「方形居館」からなると考えられている。
天文6年(1537)、北条氏綱による河越攻めに始まる河越合戦で勝利した北条氏は、天文15年、俗に「河越夜戦」と称される戦いで両上杉氏と古河公方勢の反撃を退けた。以後50余年間、河越城は北条氏の武蔵国支配の一翼として小田原城の支城となり、天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府するまで軍事・経済面で重きをなした。
江戸時代に城郭は拡張され(縄張り最大時は、約99,000坪、約326,000平方メートル)、幕府の大老、老中などの要職を兼ねる親藩・譜代の大名、8家21人が城主を務め幕末・明治維新に至った。城跡内には、国内に2例のみ残る本丸御殿があり、他に家老詰所、三芳野神社、土塁、富士見櫓跡、中の門跡と堀跡などが残存する。
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