名称 |
岩田彦助の墓 |
よみ |
いわたひこすけのはか |
種別 |
市指定記念物 史跡 |
員数 |
ー |
所在地 |
元町2-11-1 |
指定年月日 |
昭和33年3月6日 |
所有者 |
養寿院 |
文化財の概要 |
岩田彦助は、本姓は丹治氏、苗字を岩田と言い、諱は和衷(かずよし)、字は協恭、寅斎または広甫と号した。万治元年(1658)6月25日に阿波国徳島城下富田邑に生まれた。 父可次は蜂須賀家に仕える150石の藩士で、彦助は14歳で跡目を継いだのだが、藩主の或る事件によって、16歳で浪人の身となった。その後外祖父母に養われ、30歳まで学問・筆道・武術等に励み、極に至らざる所なかったと言う。 貞享4年(1687)江戸に出、32歳で当時甲斐国谷村藩主の秋元喬知に仕え、月俸2石2斗5升の身から出発。次第にその才能を買われ、16年後の宝永3年(1706)8月には正家監(家老)にまで昇るほどの異例の出世を遂げ、正徳元年(1711)には家禄700石となった。秋元家は宝永元年(1704)には川越へ移って来ていたが、国家老には有能な高山繁文がおり、彦助は江戸家老として活躍した。新参者の彦助であったが、その力量は家中の誰もが認めざるを得ず、世に「秋元に過ぎたるものが二つあり、無の字の槍と岩田彦助」と称えられたのもこのことを証している。彦助の事績で一つ有名なのは、宝永5年に歌枕で名高い「堀兼の井」の伝承地(現狭山市)に碑を建て示したことであるが、彼には儒者としての存在もあって、新井白石や室鳩巣もその力を認めていた。彦助の学問は、朱子学や陽明学に批判的で、天道などは認めず、言説は熊沢蕃山のそれに近いものであった。 享保19年(1734)5月18日川越城にて病没。養寿院に葬られたが、墓石は儒葬形の珍しいものになっている。因みに「無の字の槍」とは元和元年(1615)に秋元家2代目藩主泰朝が、徳川家康から拝領した十文字槍のことで、現在は館林市立資料館が管理している。 |