名称 |
石田藤宮神社の算額 |
よみ |
いしだふじのみやじんじゃのさんがく |
種別 |
市指定有形文化財 書跡・典籍・古文書 |
員数 |
1面 |
所在地 |
郭町2-30-1 川越市立博物館 |
指定年月日 |
昭和47年2月8日 |
所有者 |
藤宮神社 |
文化財の概要 |
この算額は、明治4年(1871)12月に、谷中村の大野旭山(きょくざん)輝範が地元の鎮守社に奉納したものである。谷中村の鎮守社は、明治41年(1908)に当時の山田村石田の藤宮神社に合祀されたため、算額もそこに移され、藤宮神社拝殿に掲げられた。 算額には一つの問題とその答と術(解き方)が記されており、その後に世話人・門人など536名の名前が列記されている。全体に墨書の退色が進んでおり、その判読が困難になっている。法量は、縦97.3センチメートル、横272.4センチメートル。 大野旭山輝範は俗名を佐吉といい、谷斎・鳳倦堂・薫亭軒とも号した。旭山は、隣村石田本郷の塩野転(うたた)頼近に最上流(さいじょうりゅう)の算術を学んだ。 転頼近は俗名を伴七、伴右衛門と称し、最上流算術を足立郡梅田村の小泉伝蔵理永に学び、旭山に算術を指南している。天保8年(1837)82歳で没した。 また旭山は、川越藩の宮澤熊五郎一利(1821から1908)から測量術をも学んだ。大野家には入間郡岸村などの測量下図が残されているが、これは明治初年の地租改正などの測量作業に従事したことによる。旭山は明治16年(1883)5月、82歳で没した。 算額に記された536名の居住地の内訳は、入間郡184名、比企郡193名、足立郡54名、埼玉郡48名、高麗郡45名、越後・上州他12名と広範囲に及んでいる。これらの人たちは全てが門人というわけではなく、算額奉納の援助者が多く含まれていると考えられる。旭山の算額奉納にこれだけ多くの人たちが関係していたことは、地域と算術との繋がりを示す資料としても貴重なものである。 |