川越市の歴史 中世

平安時代末から鎌倉時代にかけて、各地に荘園が発達し、武士がその実権を掌握するようになりました。
桓武平氏・秩父氏の流れをくむ河越氏は上戸に居館を構え、この地に地盤を固めました。河越氏は鎌倉幕府の御家人として重用され、河越重頼(しげより)の息女が源義経の正室として迎えられ、重頼の三男重員が武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)に任じられるなど、河越一族は武蔵国の有力武士として繁栄しました。
長禄元年(1457)、扇谷(おおぎがやつ)上杉持朝の家臣である太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子が現在の初雁公園周辺に川越城を築くと、川越の中心はここに移りました。上杉氏の時代を経て、小田原北条氏の支配の確立にともなう家臣団の城下への集住が進み、初期の川越城下町が形成されました。
また、この時代には平安時代の開創と伝えられる星野山無量寿寺(せいやさんむりょうじゅじ)の仏地院(ぶつちいん)(現在の中院)が関東天台の本山として勢力を誇り、同寺には仏蔵院(現在の喜多院)、南院(廃寺)ほか多くの子院(しいん)・塔頭(たっちゅう)が属していました。
この時代の文化遺産としては、古谷本郷の灌頂院(かんぢょういん)に伝わる平安末から鎌倉期のすぐれた仏像群のほか、古尾谷八幡神社をはじめ中世以前の開創と伝えられる古い神社に伝わる懸仏(かけぼとけ)など、多くの信仰遺品があります。



このほか、中世独特の信仰遺物として板碑(いたび)があります。板碑は、13世紀前半から16世紀末葉までに限り造立(ぞうりゅう)された石造の供養塔で、原材料となる緑泥片岩(りょくでいへんがん)の産地が埼玉県内(長瀞町・小川町)であるため、川越市内には少なくとも2千基以上が存在していると考えられます。
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