喜多院境内遺跡 第2次調査
最終更新日:2020年8月6日
遺跡名 | 喜多院境内遺跡 |
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よみがな | きたいんけいだいいせき |
調査次 |
第2次調査 |
時代 | 室町時代 |
調査地 | 川越市小仙波町一丁目 |
調査面積 | 約40m2 |
期間 | 平成24年8月20日から平成24年9月14日 |
調査要因 | 個人住宅 |
調査概要 | 喜多院境内遺跡は、仙波台地の東端から約700m内側へ入った台地上に位置する。現在の喜多院と、その周囲の住宅地を含むおよそ17万平米の遺跡である。遺跡範囲内には古墳時代後期の多宝塔古墳や慈眼堂古墳の存在も知られている。 今回の調査では、中世の地下式坑(地下室)1基と土坑2基、ピット多数を検出した。約40m2の調査区からは20Lのコンテナで約30箱の遺物が出土した。 これらの遺物の9割以上が地下式坑内から出土したものである。また、大半は板碑(破片も含む)であり、その他は香炉や壺、カワラケ、石臼などが各数個体である。地下式坑内の堆積状況からは、開口部(出入口)から土砂と共に、大量の板碑が投棄された状況がうかがえる。そして投棄後に地下式坑の天井が落とされている。これらの板碑はほぼ全点が破壊され、多くは被熱している。また、覆土には大量の焼土ブロックや、炭化材(木材?)も含まれていた。遺物の出土深度にかかわらず、崩落した天井の上下で接合関係が認められることから、板碑類の投入と天井の落下は時間差がほとんどなかったものと考えられる。 板碑には15世紀中葉から16世紀前葉の年号が刻まれており、16世紀代のものには金泥が残っているものもある。また、出土したカワラケは16世紀代と考えられる。これらを含めて考えると、遺構内に板碑類が投棄され、天井が落とされたのは16世紀前半以降となる。 今回の調査区のすぐ北側では、かつて第1次調査区が行われており、そこでも板碑が出土している。当時の所見では、中世において調査区周辺は板碑が立ち並ぶような景観であったことがすでに指摘されている。今回の成果からは、16世紀前半以降に、林立する板碑が破壊・撤去されたことと、兵火あるいは火災の後片付けのような行為・出来事があったことが想定される。 |
地下式坑 遺物出土状況(北から)
地下式坑 完掘状況(東から)
地下式坑 完掘状況(南から)
地下式坑出土遺物 (常滑壺)