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県指定記念物 中島孝昌墓

最終更新日:2023年9月13日

名称

中島孝昌墓

よみ なかじまたかまさはか
種別 県指定記念物 旧跡
員数 1基
所在地 喜多町5-1 広済寺
指定年月日

昭和24年2月22日

所有者 広済寺
文化財の概要  中島氏は、慶安年間(1648から52)の頃、初代の与兵衛が高麗郡から川越に移り住み、当初荒物のほか繭や川越平(ひら)などを売り捌さばき、ここから絹屋の屋号が生じたと言う。中島孝昌は五代目与兵衛で、明和3年(1766)に生まれ、字を済美、通称は徳三郎・与兵衛・徳右衛門と言った。
 絹屋は三代目から鍛冶町(現幸町)に住み、醤油醸造商に職替えして、大商人となり、やがて町名主となって行くが、四代目の父が没したとき、孝昌はまだ13歳であった。聡明好学であったがため、その歳で名主役を継ぐべく請われ、期待に応えんがため、読書筆硯に従事、学問を伊藤恒庵や海保青陵に就いて修めたと言う。
 孝昌は資性風流にして、狂歌・俳諧・漢詩・書画を能くし、茶の湯・生け 花・謡曲までも嗜み、特に桜花を愛したため、桜曙・桜斎・其馨・酔春亭などの雅号をいろいろ持った。なかでも狂歌を最も得意とし、師匠は鹿都部真顔(しかつべまがお)であった。人となりは寡言端正、行為忠実と言われ、その親孝行ぶりは衆目の認めるところとなり、藩主から表彰された。母の古稀に当たって、賀の詩歌を集めた『文孝冊』を編んでいる。それに先だつ書として彼は享和元年(1801)に地誌『武蔵三芳野名勝図会』を著す。これは秋元家時代に藩士の手になる地誌『川越索麺』や『多濃武の雁』に比べてひときわ文学的薫りの高い作品で、川越地誌の白眉と称されている。
 孝昌は体が丈夫でなかったらしい。文化5年(1808)正月10日、病のため43歳で没した。子無きため、甥の静民が後を継いだ。広済寺墓地の墓石には、病吟の辞世 消えてこそまことなりけれ雪仏 其馨 の句が刻まれている。 

お問い合わせ

教育委員会 教育総務部 文化財保護課 管理担当
〒350-8601 川越市元町1丁目3番地1
電話番号:049-224-6097(直通)
ファクス:049-224-5086

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