
(天正五年丁丑五月廿六日 北条氏印判状写 江雪奉 (折紙))
名称 |
菅間竹ノ谷家文書 |
よみ |
すがまたけのやけもんじょ |
種別 |
市指定文化財 古文書 |
員数 |
770点 |
所在地 |
郭町2-30-1 (川越市立博物館)
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指定年月日 |
平成25年3月25日 |
所有者 |
個人 |
備考 |
菅間の旧家である竹ノ谷家は、広大な敷地に二重の堀を巡らし、人々から「堀の内」と呼ばれ、後に転訛[てんか]して「ほんのうち」と通称されている。先祖の源七郎(あるいは勘解由[かげゆ])は、後北条氏治下の頃谷中大野縫殿助とともに府川郷において新たに五貫文の地を与えられ、その代官職を務めた。 この菅間竹ノ谷家に伝わる文書の総点数は770点あり、その内訳は以下のとおりである。 - 中世文書 4点 (写を含む)
- 近世文書 229点
- 近代・現代文書 537点
○中世文書 1) 天正五年丁丑五月廿六日 北条氏印判状写 江雪奉 (折紙) これは、谷中大野家文書にある北条氏印判状の写しである。本文とともに虎印判まで精密に影写されている。谷中大野家文書の原本は宛名部分が大きく破損しているが、この写には竹谷源七郎の「七郎」と「大野縫殿助」の部分も明瞭に記されている。 なお、この印判状によれば竹谷源七郎・大野縫殿助の両人は、隠田[おんでん]を申し出た褒美として代官職に任じられ、検地を行った結果により生じた増分のうち五貫文を与えられたとある。 2) 天正五年丁丑五月廿六日 北条氏検地書出 江雪奉 府川郷の田数・畠数とその分銭(注1)を書上げ、定納額、永楽銭での換算を明記したうえで、41貫353文を毎年岩付御蔵奉行衆に納めるように命じている。宛名は「竹谷・大野」である。 3) 天正十五年丁亥十月十二日 太田氏房印判状 府川郷定納の外、五貫文について、御隠居様(北条氏政)の証文通り、竹谷・大野両人へ安堵し、これに威儀有るべからずと明記している。宛所は「竹谷・大野」である。なお、包紙がありその上書に「竹谷源七郎 大野縫殿助」とある。 4) 天正十五年丁亥十月十二日 太田氏房検地書出 この府川郷の検地書出では、去年までの定納分として41貫350文、これにこのたびの増分としての5貫550文を加え、当年からの定納分として46貫900文について毎年十月晦日までに手落ちの無いように進納するようにと命じている。 以上のように、これら4点の文書によって、中世末の後北条氏による領国支配のありさまを知り得ることから重要な史料である。特に、検地や隠田摘発の様子、代官職に任命された在地郷村の土豪の役割などを明らかにできる貴重なものといえる。 ○近世文書 近世文書については、竹ノ谷氏が江戸時代を通じて菅間村の名主役を務めていたことから、村政の基本となる資料が揃っている。慶安期(1648から1652年)より幕末までの年貢割付状64点、名主役の帳簿である御用留[ごようどめ]11点、名寄帳[なよせちょう]などの土地台帳21点、村政要覧である村名細帳1点等は、近世の菅間村を知るうえで貴重な名主文書である。菅間村の名主は2名であったことがわかっているが、もう一方の名主家である菅間家では史料が全く現存していないため、竹ノ谷家の名主文書はたいへん重要なものといえる。 ○近代文書 近代文書については、竹ノ谷氏が明治維新後戸長役を務め、また、聯合戸長制のもとでは筆生となり、さらに明治22年(1889)、芳野村となってからは、芳野村村長を歴任したことから、戸籍、地租改正の土地台帳、芳野村の予算・決算書類、選挙書類等、近代の村政における各分野の基本資料が数多く揃っている。 以上のことから、竹ノ谷家文書は、各時代の全史料がそれぞれに重要な内容を持っており、たいへん貴重なものである。 注1 中世に現物の代わりに納めた年貢銭。 |