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川越市
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仲町遺跡 第1次調査

最終更新日:2020年8月6日

調査地番

川越市仲町11-11

調査期間

平成14年6月4日から同年12月4日終了

調査面積

1668平行メートル

調査原因

マンション建設のため

調査の概要

仲町遺跡は川越市街地の西部、蔵造りの町並みにある仲町交差点から西へ約200m入った場所にあります。この一帯は旧川越城下町の範囲にあたり、仙波台地の上に立地しています。調査では古代(奈良から平安時代)および、近世(江戸から明治時代)の遺構が確認されました。以下が今回の調査で検出された遺構と遺物です。

奈良時代前葉

竪穴式住居跡1軒(土師器坏/甕/暗文坏などが出土)

平安時代前葉

竪穴式住居跡4軒、掘立柱建物跡9棟、竪穴1基、井戸跡3基、ピット多数
(須恵器坏/坏蓋/甕、黒色土器、墨書土器、緑釉陶器、灰釉陶器などが出土)

江戸時代後葉から明治

井戸跡5基、土坑40基程度、ピット多数
(焙烙、擂鉢、かわらけ、天目茶碗、灯明皿、肥前磁器碗などが出土)

調査の成果

《近世》
近世の遺構については、検出された遺構のほとんどが廃棄土坑でした。調査では関東ローム層(赤土)の面まで掘り下げましたが、調査区の北側では現況地表面より1m程度の深さでロームの面が確認できたのに対し、調査区南側では1.4から1.8m程度下と、同じ調査区内でも地形の起伏が大きかったことが判りました。深い部分の土の堆積を見ると、ロームや粘土、砂利などを使って土地を造成した面が幾つも確認できました。これらの造成面は主に江戸時代のものであり、造成の盛り土を繰り返した結果、元の地盤より大幅に高くなっていたようです。調査区西側に隣接する入間川街道(旧16号)に面した箇所が特に高くなっており、道に面した場所で造成を繰り返して住んでいたことが判ります。
これらの点から、江戸時代の川越城下町は現在のように平坦ではなく、多少の起伏がある地形を平坦に造成して使用していたらしいこと、そして本調査で検出された近世の遺構は、入間川街道に面して繰り返し営まれた、町家に関わる遺構であることが判ります。
《古代》
古代の遺構については、住居跡・掘立柱建物跡・井戸跡など、いずれも大型のものが主体です。いくつかの住居は焼失した痕跡がありますが、いずれも時期が異なっていました。おそらく火災等で焼けたのではなく、住居の廃棄時など意図的に火をかけたものと思われます。掘立柱建物はほとんどが同一の方向に柱筋をそろえています。いくつかは近接しすぎているため、同時期のものというよりも、建物の廃棄後まもなく隣接した場所に建て直されたもののようです。井戸跡のうち最も大きな5号井戸跡は、方形の竪穴状に2段、擂鉢状に1段掘り下げた後、中心に板で囲った井戸筒を設置し、周囲を埋め立てて作られていました。これらの遺構の規模・性質は一般的な集落とは考えにくく、官衙(役所)的な要素が強く感じられます。
一方、遺物では大量の須恵器の器が出土しており、大勢に食事を提供するなど、日常的に大量の食器を必要としていた様子がうかがえます。また、『士』などの墨書土器もまとまって出土しています。ほとんどが記号のような墨書ですが、『大午』と書かれたものも確認されています。奢侈品では灰釉陶器や緑釉陶器が出土しており、中には推定口径が23cmと標準を大きく上回る大きさの珍しい緑釉陶器稜碗がありました。このように、遺構だけでなく遺物の面からも官衙的な要素が強く見られます。

古代の仲町遺跡の性格について

《ポイント》

  • 古代の川越市周辺は武蔵国入間郡に属しており、その郡衙(郡におかれた役所)は上戸新町にある霞ケ関遺跡とされている。
  • 役所による管理・統制があったことを示す、規格制の強い建物の配置や墨書土器の出土。
  • 大人数に食料を提供する施設の存在をうかがわせる、大量消費された食器類。
  • 貴人などを接待する宴会に使用されたと思われる、灰釉・緑釉陶器などの奢侈品。
  • 魚を取り寄せて宴会に出した証拠と思しき、土錘と緑釉陶器の共伴状態での出土。
  • 郡衙や館に付属した厨の井戸のような、大型の井戸。
  • 倉庫あるいは耐久性が要求される建物を思わせる、大きな掘り方をもつ掘立柱建物。
  • 『大午』(仲町遺跡)『午』『片牧家』(弁天西遺跡14次)など、「県道川越日高線」付近の遺跡から“馬”に関する墨書土器が出土し、周辺に馬に関する施設があった可能性。
  • すぐ南方を通る「県道川越日高線」が、古代の高麗郡方面から官道である「東山道武蔵路」と交差し、入間郡衙の脇を通って足立郡方面へと続く古代の官道であると推定できる点。→「伝馬路」あるいは「伝路」か?

↓以上の点から、
古代の仲町遺跡には「館(たち)」(国司が巡幸する際に宿泊したり、中央からの使者など伝馬路を利用する旅行者のための宿泊場所と食料を供給した施設)に類似した機能の施設、あるいは郡衙に複数置かれた館の一つが存在した可能性があります。

(問題点と課題)

(1)館は通常、郡衙の内部に設置される。
→宝亀二年(771)以降、東山道に置かれた駅館の機能が移された可能性。
→霞ヶ関遺跡から郡衙自体が移転された可能性。
(2)館を区画する柵や溝などの遺構が未検出である。
(3)「県道日高線」が「伝馬路」と「伝路」のどちらなのか、あるいは両者を兼ねていたのかはっきりしていない。

《註》

「駅路」:駅制で使用された官道で、大規模な直線的計画道路。交通の主体は駅使によって伝達される文書などの「情報」。伝馬路や伝路とルートが重なることも多い。

「伝馬路」:中央派遣の使者が各地に赴く際に利用した道で、全国各地の郡につながる。各郡に5匹置かれた伝馬を乗り継ぐ。交通の主体は派遣される「使者」。駅路や伝路の一部を利用した区間も存在したと思われる。

「伝路」:各郡衙を中心として隣接地域に至る官道で、律令国家が成立する前から地方豪族が有していた道が起源とされ、律令法には規定が無い。伝馬路は伝路の一部を編成したものといわれている。

お問い合わせ

文化財保護課 史跡担当
〒350-8601 川越市元町1丁目3番地1
電話番号:049-224-6097(直通)
ファクス:049-224-5086

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電話:049-224-8811(代表) ファクス:049-225-2171(代表FAX番号)
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