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民俗 川越のまつり

最終更新日:2015年2月17日

 川越には、季節感あふれる多彩なまつりが残されています。早春には、今年の作柄を占う行事や、豊作を祈願するまつりが催されます。夏には、獅子舞など疫病や害虫を祓うまつりがあります。秋には豊かな豊穣を感謝するまつりが多く催されます。特に「川越氷川祭の山車行事」は、人形を飾った山車が蔵造の町並み進み、多くの観光客が訪れます。川越の主なまつりをご紹介します。なお、行事の日時は変更される場合があります。ご見学される場合は、文化財保護課(電話:049-224-8811 内線2861)にご確認ください。

1月のまつり・伝統行事

南大塚の餅つき踊り

県指定文化財(昭和52年3月29日指定) [南大塚餅つき踊り保存会]

 もともとは11月15日、裕福な家の帯とき祝い(七五三)に招かれて搗いたといわれますが、現在は成人式を祝って行われます。セッタイモチとも、また、西福寺から隣の菅原神社まで臼に綱をつけて曳きながら搗く場面もあるので、ヒキズリモチともいいます。大釜で蒸しあげた糯米を臼に入れると「ヤレヤレ」のはやしことばを合図に「めでためでたが三つ重なれば…」の歌にあわせ、6人から8人で行なうナラシから始まります。その後ツブシ(一斉に搗く)、ネリ(一同で押せ、押せとねる)を経て、コネドリ1人とツキテ3人一組が餅を搗き始めます。杵ワタシ・カツイデヒトメグリ・股クグリ・モチキッカリ・ケコミ・ダマシヅキ・キネノホウリナゲなどの曲芸を入れて威勢よく搗き、最後にアゲヅキで仕上げます。万作踊りとの関係が深い祝福の行事です。

筒がゆの神事

市指定文化財(昭和47年2月8日指定) [藤宮神社]
 1月15日の早朝に行われる、その年の作柄と天気を占う神事です。カユウラとも呼ばれます。
 境内にかまどを置き、大釜を据えて小豆1合・米1升・水1斗を入れて煮、小豆粥を作ります。そこに神職が、18本の短いヨシヅツをすだれ状に編み、丸めたものを、2本のニワトコの木でつくったカユカキボウにはさんで、2回かき回すように浸します。取り出したヨシヅツは神前で祈願されたあと、神職が1本ずつ割り、ヨシヅツに入っている米粒の数を調べ、大麦・小麦・大豆・小豆・大角豆・早稲・中手・晩稲・あわ・ひえ・木綿・芋・菜・大根・そばの作柄と雨・風・日の程度を占います。占いの結果は表にしたためられ、配られます。神事が終わった後は、小豆粥が振舞われますが、食べると虫歯にならないといわれています。

2月のまつり・伝統行事

老袋の弓取式

県指定文化財(平成8年3月19日指定) [老袋の弓取式保存会]

 毎年2月11日に下老袋の氷川神社境内で行なわれます。昔は正月11日の行事でした。アマサケマチ・トウフサシとも呼ばれます。同社は、上老袋・中老袋・下老袋・東本宿の氏神で、ミヤモトである下老袋では、弓取式に使う弓矢と的、甘酒を用意し、上・中老袋が交替で豆腐田楽を作ります。東本宿は、甘酒の準備を手伝います。ユミトリッコは6才までの男の子が各地区から選ばれますが、実際には地区総代が代理として弓を射ます。的に向かって3本ずつ3回射ますが、的の白い部分と黒い部分に当たった矢の本数を数えて、白が多いと晴天が多く、黒が多いときは雨が多いといわれています。
 全ての矢を射終わると、地元の人たちが矢や的を奪い合うようにはずしていきます。矢を持ち帰ると、子供が丈夫に育つと言われているからです。また、境内では、甘酒と豆腐田楽が振舞われ、こちらもご相伴にあずかると一年間健康にすごせるといわれています。

3月のまつり・伝統行事

芳地戸のふせぎ

市指定文化財(昭和47年2月8日指定) [尾崎神社]

 毎年春の彼岸の中日(春分の日)に行なわれる、悪魔払いの行事です。享保6年(1721)に疫病が流行したことから始まったといわれ、古式をよく伝えています。行事当日は、午前中に尾崎神社境内で神輿と辻札を作ります。神輿は、わらの台座を作り、竹を渡して担ぎ棒とします。その上に四角の木製の台を置き、中央にご神体を取り付けます。台の縁にある15ヶ所の穴に榊の枝を挿し、その周囲に注連縄を回します。台の四隅には樫の小枝をくくりつけます。辻札は陰陽2種あり、篠竹に御札をはさんだものと、紙垂と輪飾りをはさんだものがあり、先端に藁で作ったボンテンをつけます。
 午後は神社社殿でふせぎの祈祷を行なうと、村回りの行列が出発します。ふれ太鼓を先頭に、辻札を子供たちが持ち「よーいど まだ まだ」とはやしながら進みます。各家の玄関前では、家人にお祓いをし、神社札を門口に貼ります。行列は早足ですすみ2時間半ほどの行程です。村回りが終わると、村の境9ヶ所に辻札がたてられます。

4月のまつり・伝統行事

石田の獅子舞

市指定文化財(平成16年3月24日指定) [石田獅子舞保存会]

 むしろの上に麦や米を広げて干すように、腰を低くかがめて荒々しく舞うことから「干し物獅子(ほしもんしし)」とも呼ばれます。かつては、4月8日の春祈祷、7月14日の天王様、10月14日のオヒマチ(秋祭り)の年3回行われていました。20年程前に後継者不足などで中断しましたが、平成10年に復活し、4月第1日曜日、7月14日、10月14日(不定期)に行われています。
 獅子は、大獅子・小獅子・女獅子の3頭で、獅子の他には、山の神(ハイオイ)1人、ササラッコ4人、提灯持ちとホラ貝吹き、それに笛方と歌方が数名加わります。獅子と山の神は成人男性、ササラッコは女子がつとめます。曲目は、一庭つまり一曲形式で、鳥居から境内にはいると「この庭はたてが十五里よこ七里入りをよく見て出端にまような」を始めに獅子歌が次々と歌われ、それに合わせて獅子が舞います。場面は前庭から腰休め、花見、女獅子かくし、女獅子争いと進み、出端で終わります。舞の途中に「誉め言葉」と「返し言葉」のやりとりがあるのが特徴です。

老袋の万作

県指定文化財(昭和52年3月29日指定) [老袋万作保存会]

 4月の第2日曜日、老袋氷川神社の春祈祷の日に、境内に舞台を掛けて行なわれます。明治25年頃、出丸中郷(現川島町)の紺屋のマッツァンから習ったのが始まりと伝えられ、村の祭りに参加したり、新築の農家などに招かれて踊ったといいます。万作踊りから万作芝居も演じるようになり、老袋出身の忍川屋村田銀蔵(1890~1979)が中心となって、昭和13年頃までは盛んに演じられました。その後一時衰退しましたが、昭和38年に復活しました。
 万作には、手踊り・段物・芝居・茶番狂言がありますが、老袋ではいずれも伝承し、豊富な内容を誇っています。手踊りは、「下妻踊り」「伊勢音頭」「手拍子」「鈴木主水」があります。太鼓と四ッ竹で拍子をとりながら軽快に踊ります。踊りに演劇の要素を加えたものを段物といい、「笠松峠」「白枡粉屋」があります。また、芝居では「お半長右衛門」「小栗判官供養の場」が、そして、県内では伝承地区が少なく貴重となった茶番狂言に「お玉ヶ池」があります。

南田島の足踊り

市指定文化財(昭和49年5月11日指定) [南田島囃子連足踊り保存会]

 南田島氷川神社の4月14日の春祈祷・7月14日の天王さま・10月14日のオヒマチに奉納され、川越氷川祭でも演じられることがあります。南田島の囃子は、堤崎流の系統ですが、他の囃子連にはない足踊りが継承されています。人形を操る人があお向けに寝て、腰に座布団を当て、足先にオカメとヒョットコの面をつけます。着物の袖に手を通し、日傘や扇子などを持ちます。始めにオカメが登場し、しばらくしてヒョットコが現れると、オカメとの掛け合いをニンバの曲に合わせ演じていきます。演者は両手両足を高く上げ続け、かなりの体力が必要です。
 もともとわらに棒をさしこみ、手ぬぐいを男被りと女被りにして演じたといわれていますが、明治時代初期に森田森之助(1857~1936)が、人形浄瑠璃を参考に、足人形に面をつけるようになったといわれています。その後、萩原泰治(1897~1974)と森田元次郎(1902~1969)が受け継ぎ、さらに改良を重ねて現在の形となりました。

川越祭りばやし

県指定文化財(昭和52年3月29日指定) [中台囃子連中]

 川越地方の祭りばやしは、江戸時代後期に伝えられた江戸ばやしがもとになっていると言われており、王蔵流(おおぞうりゅう)・芝金杉流(しばかなすぎりゅう)・堤崎流(つつみさきりゅう)の三流派の系統に大別できます。大太鼓1・小太鼓2・笛1・鉦1で必ず舞方が付くのが特徴です。
 中台の祭りばやしは、里神楽から発展し、江戸時代後期に高井戸の笛角と呼ばれる人から指導を受けて祭りばやしの基礎をつくりました。その後明治時代の始めに松平不味侯のお抱えの囃子方であった王蔵金の指導によってそれまでの囃子を刷新したと伝えられています。その由来により「王蔵流」と称しています。川越氷川祭では、江戸時代後期より仲町(旧志義町)の囃子方を務めている他、地元八雲神社の祭礼(4月15日に近い日曜日・8月第1日曜日)にも囃子を奉納しています。現在の伝承曲は、屋台・鎌倉・鎌倉攻め・宮昇殿・いんば・子守り歌・数え歌・四丁目・大間昇殿です。川越周辺に流派の広がりがあり、市内6ヶ所と市外2ヶ所には直接伝授しました。

川越祭りばやし

県指定文化財(昭和52年3月29日指定) [今福囃子連中]

 今福の祭りばやしは、もともとは中台と同じでしたが、明治初年になって分かれたと伝わります。その後、五宿(現在の調布市)の囃子の師匠であった福岡仙松の指導を受け、にぎやかな新囃子にかわりました。福岡仙松は芝の金杉橋付近で下駄屋を営んでいたので、それに因んで「芝金杉流」と称するようになったといわれています。
 明治21年に六軒町が山車を新造した際に、他の囃子連と競争して選ばれたと伝えられていますが、それ以後、川越氷川祭には六軒町の山車の上で囃子を演奏しています。また、地元の菅原神社(4月15日・10月15日)・平野神社(7月中旬)の祭礼にも囃子を奉納します。現在の伝承曲は、屋台・宮昇殿・鎌倉・鎌倉攻め・師調舞・トッパトーガク・いんば・子守り歌・数え唄・八百屋お七です。川越周辺に流派の広がりがあり、今福から市内8ヶ所と市外2ヶ所に伝えられています。

石原のささら獅子舞

県指定文化財(昭和55年3月29日指定) [石原のささら獅子舞保存会]

 以前は4月18日に行なわれていましたが、現在は4月の第3土・日に行なわれます。(陰祭は日曜のみ)慶長12年(1607)に始められたと伝えられ、寛永11年(1634)川越城主酒井忠勝が若州小浜に国替の際、雌雄2頭と舞人を伴ったため中断しましたが、宝永6年(1709)に太田ヶ谷(現鶴ヶ島市)に習って復活したと伝えられます。
 獅子は、先獅子・中獅子・後獅子で成人男性が演じます。山の神は少年で、4人のササラッコは少女がつとめます。舞は十二切と呼ばれ、12の場面に分けられます。第5場面では「太鼓の胴をきりりとしめて ささらをさらりとすりそめさいな」などの小唄があり第9場面は雌獅子隠しの乱舞があります。2年に1度の本祭りでは、観音寺を出発して町回りを行なった後、「昇殿一つ打ちの舞」を舞いながら高沢橋を渡ります。対岸の元町2丁目では自治会役員が迎え、井上家の庭で一庭舞います。その後は観音寺に戻り、一庭半舞います。半分の舞を来年に残す意味があるといわれています。最後に長老が「千秋楽」を歌って終了します。

中福の神楽

市指定文化財(昭和50年6月9日指定) [中福の神楽保存会]

 入間・北足立・多摩地方には、東京都府中市の大国魂神社の宮司が始めたと伝えられる、相模流神楽が伝承されています。中福の神楽はこの相模流に属し、根岸家が代々元締をつとめています。曲目は一曲一座形式で、「墨江三柱大神」「三穂崎魚釣」「八岐太蛇」「神田種蒔」「猿田大神」などがありますが、初めに「三番」と称して墨江三柱大神の舞を奉納し、猿田大神の舞で終わる通例です。神楽は、神社の祭りなどに招かれると、出方と称して、親戚や近在の人を頼んで一座を組みます。現在は、地元の中福稲荷神社の春祈祷(4月19日)を始め、増形白山神社、藤間諏訪神社、下赤坂八幡神社、川越氷川神社、東村山市野口八坂神社などに、頼まれると神楽を奉納しています。
 なお、明治末から昭和初期に根岸勝広・馨氏が彫った神楽面が残されており、市の有形民俗文化財に指定されています。

7月のまつり・伝統行事

まんぐり

市指定文化財(昭和47年2月8日指定) [八咫神社]

 以前は7月14日に行なわれていましたが、現在は7月第2日曜日に行われています。まず、上寺山公民館でボンテンと辻札を作ります。以前は年行事が時田家に集まって作っていました。ボンテンは、まず、青竹に麦わらを俵状に束ねて巻き、その頭頂に幣束を3本挿します。幣束は大天狗(1本)・子天狗(2本)と呼ばれています。さらに五色の幣串をたくさん挿します。八咫神社で祈願した後、しめ縄をかけた青竹を先頭に、ほら貝・ボンテン・辻札を持った人が続きます。ボンテンは、前の人が肩に担ぎ後の人が腕に抱えて、斜めになるように運び、時おりボンテンの足を地面につけ引きずるようにして走りまわります。村境の4ヶ所には辻札をたて、村境の入間川では、川に入り皆でボンテンに水をかけます。その後は八咫神社境内にある石尊さまに運び、前年のボンテンと取り替えます。大山信仰の影響を受けた夏の祓えの行事です。

鯨井の万作

市指定文化財(昭和55年2月13日指定) [鯨井の万作保存会]

 7月15日前後の日曜日、天王様の行事に演じられます。大きな獅子頭が若者たちに担がれて神社を出発すると、村回りの途中何度か休憩を取りますが、休憩する家の庭先などで万作踊りが演じられます。
 明治末年に鯨井の真仁田市平が村人に教えたのが始まりと伝えられ、昭和初期には「巡回連」という名前で各地の花見に出向いたり、周辺の祭りに頼まれて踊ったといいます。その頃は、派手な女の着物を借りて踊ったといいますが、現在は、ねじり鉢巻に揃いの袢纏、地下足袋といういでたちです。
 踊りは、太鼓と笛、鉦の音に合わせて、「そうだあよそうだよヨホホイ 今年は世が良い豊年年だからヨホホイ 穂にほが重なり枡はまたいらぬでヨホホイ・・・」と歌い、それに合わせて「下妻手踊り」が踊られる。横一列に並び、老若男女幼い子供たちまで揃って勇壮に踊ります。この他「数え歌」「追分」「八木節」「相撲甚句」「伊勢音頭」などがあります。

下小坂の獅子舞

市指定文化財(平成14年2月25日指定) [下小坂獅子舞保存会]

 7月15日前後の日曜日に行われる、白鬚神社境内に祀られている天王様の行事です。起源については、元禄3年(1690)に、永命寺境内に薬師堂を建立したのを記念して始めたという説と、寛政年間(1789~1801)に、悪疫退散のため入間川宿(現狭山市)の獅子舞に習って始めたという説があります。
 獅子は、大獅子・中獅子・女獅子の3頭で舞手をシシクルイッコといいます。その外仲立ち1人、ササラッコ4人の他、棒使い2人がおり、すべて少年が演じます。以前は、村回りをしましたが、現在では、自治会館から「道くだり」の笛にのって白鬚神社に向かいます。参道では笛の音が「唐人くだり」の曲に変わり、境内に入ります。最初に棒使いによる棒術が演じられた後、獅子が舞いはじめます。曲目は「女獅子隠し」ほか数曲があり、間に「仲立は京に生まれて伊勢育ち、腰に差したる伊勢のお祓い」などの歌が入ります。舞い終わると、参加者が境内を巡って「千秋楽」の言葉を唱え、手締めをして終ります。

福田の獅子舞

市指定文化財(昭和63年1月29日指定) [福田の獅子舞保存会]

 天王様の行事で、昔は、7月23日・24日でしたが、現在は7月24日前後の土日に行われています。天王様はもともと星行院にありましたが、明治以降赤城神社に移されたので当日は御仮屋をたてて、お迎えしています。まず土曜日の夜はソロエといって一庭舞い、日曜日の本番の日には、「四方固め」といって、神職と獅子一行が地区を廻り、地区境にフセギ札を立てます。途中堤防の上(九頭龍様)・山下家の庭(天王様跡)・小高家の前(神社跡)で一庭舞い、村まわりのあと赤城神社で何度か舞います。
 獅子は、先獅子(雄)・中獅子(雌)・後獅子(雄)で、先獅子と中獅子は300年程前に入間川を流れてきたという伝承があります。獅子とハイオイを舞うのは中学生の男子で、その外ササラッコは女子が演じています。現在、横笛の奏者が少なくなったところから、保存会の会員で音楽の先生であった小高勝次氏が採譜し、小学生による縦笛演奏を養成するなど伝承に努めています。また、2日目の最後の舞は、熟練の青年が横笛の音に合わせて舞います。

9月のまつり・伝統行事

ほろ祭

県指定文化財(平成10年3月17日指定) [ほろ祭保存会]

 以前は9月15日の行事でしたが、現在は敬老の日の前日の日曜日に行われます。ホロカケマツリとも呼ばれます。
 ホロは、薄桃色の紙花の付いた竹ひごを36本束ねて、背負いかごに上から差込み、その竹ひごを反らせて糸で固定したものです。これを背負うホロショイッコは、古谷本郷の上組と下組から2人ずつ選ばれた小学校低学年の男子です。いでたちは、腹掛け・手甲・脚絆・黒足袋に陣羽織で、顔は美しく化粧して頭には鉢巻を巻きます。当日、ホロショイッコは用意を整えると、近所に挨拶周りに出かけます。家では、親戚や日頃お世話になっている人を招いて祝宴が開かれ、父親がホロショイッコに三献渡した後、客に挨拶します。六尺棒を持った青年団が迎えに来ると古尾谷八幡神社に向い、神前にお参りして、神輿の渡御にお供します。一の鳥居を出ると、4人のホロショイッコは、背負いかごの中の鈴を鳴らしながら練り足を踏み、御旅所をめざします。両親をはじめとした親族が取り巻いてはげまします。元服式の色合いが強い行事です。

ほろ祭りの写真

10月のまつり・伝統行事

上寺山の獅子舞

市指定文化財(平成4年8月7日指定) [上寺山獅子舞保存会]

 昔は10月22日に行われましたが、現在は10月第3土曜日に行われます。当日は、公民館(昔はシシモトと呼ばれた時田家)を出発し、八咫神社に向かいます。
 境内では、まず「仲立ちの舞」から始まります。イレハから竿掛かりとなり、仲立ちの歌の後、ケンカバでは女獅子が花笠に隠れ大獅子と中獅子が争います。次の「十二切の舞」では、「唐から下りた唐絵のびょうぶ 一重にさらりと引きまわさいな」など12の歌が歌われます。また、「東西東西、暫く暫く・・・」と誉め言葉が獅子にかかるのも特徴です。誉め言葉がかかると返し言葉で応じます。獅子は、大獅子・女獅子・中獅子で、山の神とともに男子が演じ、ササラッコは女子です。
 獅子舞の起源は伝わっていませんが、秋元侯が川越藩主であった頃、竹姫という姫君の眼病平癒のために21日間獅子舞を奉納し祈願したところ、たちどころに姫の眼病が直った功績により、葵の御紋の入った麻幕を下賜されたという伝承が残されています。

川越氷川祭の山車行事

国指定重要無形民俗文化財(平成17年2月21日指定) [川越氷川祭の山車行事保存会]

 川越氷川神社の秋の例大祭に行なわれます。慶安元年(1648)、当時の川越藩主松平信綱が神輿・獅子頭等の祭礼道具を寄進し、氏子域である十ヶ町に祭の執行を促したのが始まりです。天下祭と呼ばれた赤坂山王祭・神田祭の影響を受けて発展しました。江戸時代に城下町で発達した都市型祭礼の一つであり、江戸型山車の巡行する祭礼行事の代表です。
 現在の山車行事は、10月第3土・日曜日(14・15日が土日の場合同日)に行われます。各町内では、伝統的な町内組織である年行事制度が基盤になっている祭組織を作り、準備を始めます。祭が近くなると、神幸祭が通る道の端に紅白幕を張り巡らし、会所の設営、山車のきっくみ(組立)が行われます。祭当日は、近在の農村から囃子方が招かれ山車の上で囃子を行います。運行は鳶の頭が運行責任者となり、町内の役員が宰領となって指示します。氷川神社への社参や町内曳きの後、他町に曳き回しますが、山車に出会うと囃子を演奏しあう曳っかわせが見所となっています。

川越まつりの写真
川越まつり

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